変革はいつの時代も必要。けれど、それぞれが有する本質を考究することも忘れてはいけない/早稲田大学教授・石田光規
石田光規
早稲田大学では主に人間関係論の教鞭をとり、現代社会における人々の孤独・孤立について研究する石田光規教授。オンライン授業導入の問題点、長引くコロナ禍による人間関係の変化、日本人の特性から見える孤独・孤立の問題についてを研究者ならではの鋭い視点で解説してくれました。
目次
まずい料理を懸命に作っている…この2年はそんな感覚だった
2019年の12月、中国で一例目となる新型コロナウイルス感染者の報告があった当時、私は大学の研究休暇を取得していました。来年度の休暇明けに向けて、いよいよ準備を始めていたという時期だったんです。それからすぐ世界的なパンデミックが起こり、日本では4月に緊急事態宣言が発令されました。
私の場合は研究休暇が延長されたような感覚。妻と幼稚園児の4人家族ですが、2019年の1年間は自宅で作業していることが多かったため緊急事態宣言によって家族の生活スタイルが大きく変わるということはありませんでした。
しかし、大学での指導に関しては戸惑うことだらけだったというのが本音。研究休暇明けの2020年春学期は全てオンライン授業で進行し、秋学期は5回分だけ対面授業の許可が下りました。この年は、学生と会う機会がほとんどなかったのです。
現在はオンライン授業と対面授業どちらも選択できるようになりましたが、私の場合は全て対面で授業を行っています。理由としては、オンラインよりも対面の方がメリットが多いと感じているから。
もちろん、オンライン授業はコンテンツとして一度制作・収録しておけば次年度にも活用できるという利点があります。また、Zoomを使った双方向の授業と対面式授業の両方を取り入れることで指導する側も学生も柔軟に研究を進められる面も大いにあるでしょう。
けれど、オンライン授業用の資料やコンテンツを制作していて感じたのは“プロの料理人がまずい料理を一生懸命作っている”ような、そんなもどかしい感覚でした。そしてこの2年、その感覚を払拭できる術は見つけられませんでした。
私が感じたもどかしさは、学生の多くも感じていたはずです。この2年で休学や留年をする学生が非常に多かったのも、それが理由になっている部分もあるでしょう。また、2年しかない修士課程の大学院生はよりつらい思いをしたと感じます。調査ができない、指導を受けるのも全てオンラインという不安定な状態でしたから…。
このもどかしさを払拭できなかったのは、結局、オンラインに対面以上の魅力を見いだせなかったからでした。その一方で、オンラインはどんどん生活に入り込んでいきます。この点は、後ほどまたお話ししましょう。
ゼロリスク追求による子育て世帯の孤立化
2年以上続くこのコロナ禍、ますます顕著になった社会問題として挙げられるのが“孤独”と“孤立”です。
そもそも、孤独と孤立は何が違うのかを簡単に説明すると、
【孤独】…主観的状態。寂しい、ひとりぼっちだと感じる状態。
【孤立】…客観的状態。経済的な面も含めてサポートがない状態。
孤独については、老若男女問わず感じた人が多かったことでしょう。しかし、上で説明した孤独と孤立の定義を見てみると、“孤立”の方がより深刻に思えます。
一般的に、孤立状態に陥る人の多くは、“恵まれない側”に立たされがちです。例えば、
- 家族関係に問題がある人
- 高齢者
- 地方生活者
にその傾向が多く見られ、男女比率でいうと男性の方が多いというのがさまざまな調査結果から分かっていることです。
ところが、コロナ禍によって新たに孤立状態に陥った人もいます。例えば、子育て中の母親。2020年に出産した母親を対象にした聞き取り調査では、彼女たちが厳しい状況に置かれていたということがよく分かります。
- 立ち会い出産や面会が不可となり、出産から産後退院するまで夫や親に会うことができない。
- 感染を避けるため外出を控え、夫以外とのコミュニケーションが図れない。
- 児童館・子育て広場の閉鎖や予約制という制限により、ママ友ができない。
- 実母や義母からのサポートが得られず、産後直後でも休息できない。
- 夫がリモートワークで自宅にいるため、自分と子どもの居場所がない。
など、さまざまなストレスを抱える母親がかなり多くいました。中には、生まれた子の体が弱く1年以上外出できなかったという母親もいたのです。
そして、孤立した母親たちが皆声をそろえて言うのが「とにかく誰かと話したい」という素朴な願いでした。
母親をはじめとする子育て世帯然り、コロナ禍で孤立する人が増えた理由としては、日本人ならではの気質に関係があると考えられます。
日本人の気質が孤独や孤立を生むことも…
孤独や孤立の解消方法は、親しい人と会うだけではありません。
例えば、
- 行きつけの店に一人で行くことで、気持ちが落ち着く
- 散歩や買い物、映画などで街のにぎわいを楽しむ
など、人にはそれぞれの解消法があります。しかし、「不要不急」というワードによりそれらを失ってしまった人は多いでしょう。
日本人は全体的に生真面目で、「迷惑をかけてはいけない」と他者の目を意識しすぎる気質があります。
- 誰かを誘ったら、常識はずれだと思われるかも…。
- 友達を誘ったら、相手を大事にしていないと思われるかも…。
など、良くも悪くも他人の気持ちを考えすぎる日本人特有の気質は、孤立状態に陥る人を増やした一因にもなったと考えられます。
こういった他者の目を気にする気質、人への迷惑を気にする意識というのは、“助けを求められない”ことにもつながります。さらに、注視すべきは感染者に対する批判です。
「コロナに感染した人は、周りに迷惑をかけている」
「自己管理が悪いから、感染したのだ」
といった“感染者はけしからん”という風潮がベースにあると「感染したことを知られたくない」という気持ちに陥り、感染者の孤独へとつながります。
コロナ禍によって一層、顕著になった孤独や孤立といった社会問題は、さらに社会のあり方や人々の意識の変化に依拠する部分もあります。
コスパで選ぶ人間関係が “選ばれざる人”を孤立化させる
日本は従来、国家と個人の間にある血縁・地縁・社縁といった「中間集団層」の絆が強固な社会でした。ところが1990年代以降、中間集団層は急速に揺らいでいきます。
中間集団層の揺らぎの背景にあるのが既婚率の低下や地域コミュニティの衰退、会社とプライベートの明確な分断化。そして、そこには“個”を尊重する風潮や「息苦しい関係から解放され、自由を謳歌したい」という現代人の心性が反映されています。
中間集団層の弱体化により周囲との関係が希薄化すると、「人間関係の選択性」「接触の選別」が生じます。自分にとって何かしらのメリットがある相手、居心地の良い相手との関係性をより好むようになるのです。それはつまり、“選ばれない人”が生じるということ。人と会うのが難しいこのコロナ禍で、“真っ先に会いたいと思う相手”に選ばれなければ、自ずと孤独や孤立につながる可能性があるのです。
若い世代からは、友人関係を“コストパフォーマンス”で選ぶという話も聞こえてきます。“誰かに選んでもらうために、自分の良い面(パフォーマンス)を見せる”という意識にとらわれた人間関係を結ぶ傾向を意味します。
しかし、そのパフォーマンスが何なのかというのが明確には分からないため、人間関係に苦労する人も少なくありません。そうすると、自分が相手にとってのコストにならないように“嫌なことは言わない”、“迷惑をかけない”という部分により気を遣うわけです。
もっとも、自分にとっては良かれと思うことでも、相手にとってはマイナスにとらえられるというのは生きていれば普通にあること。その微妙な意識の差が発生したときに使われるのが、“人それぞれ”という言葉です。「まあ、人それぞれだからね」と、なるべく立ち入らないようなかたちで済ませる。しかし、“人それぞれ”という言葉は受け入れられているような、突き放されているようなどちらともいえないあいまいな逃げ言葉です。そしてそれ以上に、「もうこの話題はしないでおきましょう」という寂しさを相手に伝えることにもなってしまうのです。
最終的に問題となる孤立者というのは、自分から声を上げることができない人たち。そして、それに対して介入するのもとても難しい問題です。例えば救済が必要な人に対しての場所づくりを行政が行っても、孤立している人がそこに来る可能性はなかなか低いという現実があります。
個人を尊重する一方で、「会社には守ってほしい」「地域や家族のつながりがないと不安」という矛盾した考えを持つ人が多いのが今の時代。この矛盾を抱えているがゆえ、孤独を感じる人は多く、孤立化してしまう人もいるのです。
個人の意思を最優先とし、踏み込まないという風潮は見直すべきことなのかもしれません。
生活になじみつつあるオンラインの特性はもう少し見極めるべき
最後に、この2年で急速に進んだオンラインの導入について考えてみましょう。
オンラインには、
- 遠隔地など、場所を問わず参加できる
- 障害や病気のある人でも参加できる
- 繰り返し閲覧することもできる
- コストが削減できる
など、非常に分かりやすい特性があります。何らかの条件でアクセスできないといった“マイナス”をゼロに戻すという点でいえば、オンラインはとても有効な手段です。
また、緊急事態宣言発令により始まったオンライン授業と児童・生徒の「1人1台端末」というGIGAスクール構想のタイミングが重なったことで、予想以上にスムーズに教育改革が進んだと感じます。
しかし、あまりにも急激な変化のためそのデメリットについてはあまり検討されていない気がするのです。オンライン導入によって失うもの・失われるものもあるはずです。
そもそも、対面のメリットは感覚的なもので、それを「証明しろ」と言われるとなかなか難しい。「オンライン会議でも対面と同じようにできます」という言葉への反論は思ったより難しいのです。しかし、だからといってそのまま導入すれば良いというものでもありません。
例えばタブレットは子どもを夢中にさせる魅力にあふれていますが、その分、親の管理も必要になるということ。タブレット使用のルールをしっかり決めるのか、あるいは“子守り”をしてくれる便利な道具ととらえるのか…。家庭ごとに生じるその“差”によって、どのような影響が出てくるのかは懸念すべきでしょう。
また、子どもたちは吸収力が速く、大人顔負けのレベルでタブレットやパソコンを操作する子も多いものです。しかし、使い慣れることが果たして良いのかどうかも考える必要があります。オンラインが“自然”になることで、失うものはないのか…。
私たちはそもそも、人類の歴史の大半を対面の関係中心で過ごしてきたのです。それを失う意味合いは、もっと真剣に検討するべきです。
また、オンライン導入により、先述した「人間関係の選択性」「接触の選別」という部分はより加速されると考えられます。「オンラインで済むものは済ませておこう」「わざわざ会うほどじゃない」という思考が人々の主流になれば、孤立する人は必ず発生します。
オンライン導入に関しては、もう少し特性を見極める時間が必要でしょう。そして、オンラインとどのように向き合っていくべきかを子どもたちにしっかり伝えることが、私たち大人の責務なのかもしれません。
1973年生まれ。2007年、東京都立大学大学院社会科学研究科社会学専攻博士課程谷取得退学(社会学博士)。大妻女子大学人間関係学部准教授を経て、現在は早稲田大学文学学術院文化構想学部教授。著書に『「人それぞれ」がさみしい 「やさしく・冷たい」人間関係を考える』(ちくまプリマー新書)『友人の社会史-1980~2010年代私たちにとって「親友」とはどのような存在だったのか』(晃洋書房)などがある。プライベートでは2児の父。