学校が安全安心な場所になるよう現状を見つめ、それぞれが意識改革を/教育社会学者・内田良
内田 良
『ブラック部活動:子どもと先生の苦しみに向き合う』『教師のブラック残業:「定額働かせ放題」を強いる給特法とは?!』など多数の著書を通し、学校の実情をエビデンスベースで発信する教育社会学者・内田良さん。教員の働き方の根本的な課題を深堀りしながら教育の未来への可能性を示してくれました。
目次
教員、子どもたちの双方が苦しむ学校の今
「学校って、何だろう」。
シンプルだけれどとても難しいこの問いに、私は、「学校は、子どもたちが安全・安心に過ごせる場」、「子どもたち一人ひとりが自分の考えをのばし、人生を展望する場」で〝あってほしい〟と答えたいと思います。
〝あってほしい〟とあえて答えたのには、理由があります。私は教育社会学者として、これまで多くの教育問題を調査・研究してきました。でもいまの学校は、残念なことに先ほど掲げた答えからほど遠い状態といっても過言ではないからです。
学校で働く教職員は日々、目の前の課題に一生懸命取り組んでいます。一方で社会が急速に変化する中、学校教育に求められる要望は増大するばかりです。
しかし、それに応じて教職員の数を増やすなどの具体的な方策が立てられることはなく、仕事は増え続け、教員たちは疲弊しています。忙しすぎる教員たちは日々の業務に追われ、子どもたちとしっかり向き合うことができていないのが現状です。
子どもたちは子どもたちで、「くせ毛の場合は自毛証明を提出」「制服のスカートが膝から見えたら校則違反」など、一般社会からみたら明らかにおかしい〝ブラック校則〟やいじめなどさまざまな問題に直面し、悩み、苦しむケースが少なくありません。
なぜ学校は、このようになってしまったのでしょうか。
中学校で六割の教員が「過労死ライン」越え
その背景には教員の働き方があると、私は考えています。
みなさんは、公立学校の教員の働き方について、どのようなイメージを抱いていますか?
「子どもたちと同じように夏休みや冬休みがあり、休みが多い職場なのでは」などと思っている人も少なくないようですが、実際は、その全く逆なのです。
2016年に文部科学省が公立の小中学校教員を対象に実施した教員勤務実態調査(速報値)によると、平日における平均労働時間(持ち帰り仕事の時間は含まない)は小学校が11時間15分、中学校が11時間32分に達しています。
2006年度の調査と比較すると、一日あたり、小学校では平日が43分、土日が49分、中学校では平日が32分、土日が1時間49分の増加となりました。
上記の図からもわかるように、「過労死ライン」(時間外労働が月80時間以上)を超えて働く教員が、小学校で約三割、中学校で約六割にも達しているのです。
社会構造の変化がつくりだした「学校依存社会」
ベテランの教員からは、「2000年頃から現場に余裕がなくなってきた」という声を聴きます。2002年に「学校週五日制」が完全実施されました。「ゆとり教育」により授業時数が削減されたのですが、同時に授業日数も削減され、結果的に授業の密度は濃くなりました。実はこの頃から各地で徐々に、授業時数の不足を理由に、夏休みの短縮が始まります。
しかし一方で、学力低下が問題となり、2008年から授業数が再び増加。「ゆとり教育」から「学力重視」の授業へのゆりもどしを、余儀なくされました。
加えて今日では、英語教育の必修化やプログラミング教育の導入、ICT教育環境の整備など教育改革の波が押し寄せ、対応に迫られているほか、最近の日本社会は、ひと昔前と比べると、一人ひとりの子どもを大事に育てる風潮が強まっています。
個別の丁寧な対応が学校に求められていて、特別支援、いじめ防止、キャリア教育などさまざまな教育課題の多くが、いつのまにか学校に押し寄せてきている状況です。
これらの教育内容を実現するためには、その準備を含めていったいどれだけの時間や教員が必要なのか。この議論がほとんどされないまま、学校に、たくさんのことが任されるようになってきました。
このような状況を、私は「学校依存社会」と呼んでいます。
例えば、「中学生や高校生が、大型商業施設のフードコートでおしゃべりしている」という事例があるとします。その様子を目にした従業員や地域の人は、子どもたちを注意しないかわりに学校に連絡を入れます。そして教員が謝るという流れです。
「学校がなんとかしてくれる」という社会通念と、それを真に受け、なんとかその役割を果たそうとする学校。
その結果として学校は、そうしたトラブルを避けるため、先手を打って子どもの行動を規制します。必要以上に世間の目を意識するようになり、厳しい校則で子どもたちをしばるようになっていきました。
子どもたちのために献身的に働くのが当たり前?
学校依存社会を憂い、一番困っているのは当の学校のはずです。しかし、学校も教員も、黙々と〝丸抱え〟を続けるのはなぜでしょうか。
それは、教育という世界の特殊性にあると、私は考えています。
教育界には“サラリーマン教師”という言葉があります。サラリーマン教師とは、サラリーマンのように決められた仕事をするだけで、子どものために献身的でない教師のことを指し、“理想的な教師”の対義語として意味づけられています。
ここで掲げられている“サラリーマンの概念”である、勤務時間内に義務として決められた仕事をするだけで、主体的、献身的に仕事を行うといったことをしない人という内容は、「信念をもって働くサラリーマンに対して失礼である」という意見があり、それはもっともだと思います。
しかしそれより問題なのは、「子どもたちのために、主体的に献身的に仕事を行う」という〝献身性〟が教師に求められていることです。
実際に、毎回子どものノートに書き込みを入れてくれたり、土日も熱心に部活動を指導してくれる先生は、保護者からの評判も高かったりします。時間やお金に関係なく働く姿を、私たちは教師の“情熱”に置き換えてしまうのです。
頑張り続けてしまう学校のほころびが表面化
注目すべきは、このような声が、学校の外部からだけではなく、学校の内部、すなわち教員自身からも発信されてきたという点です。
私はこれまで、子どもたちのことを真剣に思い、寝る間もおしんで授業や行事の準備を行い、週末は部活動の指導に精を出す教員たちにたくさん出会ってきました。
放課後は毎日のように部活動の指導に力を注ぎ、週末の練習や試合の引率も当たり前で「部員が喜んでくれればそれでいい」と言い切る教師、寝る時間を削ってまでも子どもたちの学習ノートに一人ひとりメッセージを書いたり、連絡帳に子どもの様子を保護者にくわしく報告したりすることに仕事のやりがいを感じている教師たち。
ノートや連絡帳への記入や部活動の指導など、授業以外の時間の使い方は、それぞれの裁量に任されているため、先生たちは、授業はもちろんのこと、授業以外の時間も〝いくらでも頑張れてしまう〟のです。
自分が頑張るほど子どもたちの目が輝き、笑顔が増える。そして保護者からは、「いつも先生が書いてくださるメッセージを子どもも楽しみにしています。ありがとうございます」「先生のご指導のおかげで、子どもたちもここまで部活動を頑張ることができました」などと感謝の声が寄せられる…。
これらが「教師冥利につきる」という充実感や満足感となって先生たちの心に火をつけ、ますます〝献身的な教師〟を目指して頑張り続けてしまうのです。
学校の外にいる人がそう期待しているだけでなく、中にいる教員自身も献身的な自分に誇りを感じ、子どものために自己犠牲をおしまず仕事をし続けてきたほころびは、前述の「過労死ライン」越えの労働、疲弊する学校現場という「結果」として現れているのです。
公立学校の教員に適用する「給特法」の特殊性
学校における教員の献身的な働き方と〝共犯関係〟にあるのが、公立学校の教員に適用されている法律・「給特法」(正式名称は「公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法」)です。
正式名称からもわかるように、「給特法」は公立学校の教員だけに関係する法律で、この法律のもと、公立学校の教員は、所定労働時間を何十時間超えて働いても、残業代は一切支払われません。
これは、本来なら残業代が出るはずなのに会社から支給されないといった、いわゆる 〝ブラック企業〟の問題点とは全く異なるものです。
公立学校の教員の働き方は、労働基準法によって管理されていますが、時間外労働(=残業)については、「給特法」が適用されます。
残業代の不払いは、〝ブラック企業〟においては違法になるけれども、公立学校においては違法ではないのです。
〝定額働かせ放題〟の中で今も働き続ける教員たち
「給特法」は、今からさかのぼること約50年前の1971年に制定、1972年に施行されました。「給特法」のもとでは「残業代」という概念はなく、教員の給料月額の4%分が「教職調整額」として上乗せされ、支給されます。
「給料月額の4%」という数字は、1966年度に文部省が実施した「教員勤務状況調査」において、一週間における時間外労働の合計が、小・中学校で平均2時間弱だったことから算出されたものです。
給特法が約50年前に決められた当時も反対意見は多く出されましたが、それでもまだその仕組みは当時の勤務実態に合ったものでした。ところがその後、学校の業務は増加しつづけてきました。
教員たちはいわば、〝定額働かせ放題〝といった劣悪な労働環境の中で、部活動指導や授業準備、さまざまな会議などで時間外労働を強いられ続けているといっても過言ではないのです。
教員たち自身にもこの問いと向き合ってほしい
教員の働き方をめぐるこのような問題については、高校教論である斉藤ひでみ先生をはじめとする現役の教員がツイッターなどSNS上で声をあげつづけています。
そのおかげで、教員の長時間労働がさまざまなメディアで取り上げられるようになり、「教員にも働き方改革が必要である」といった世論が少しずつ高まりつつあります。
しかし、「子どもとの部活動が楽しい、もっと取り組みたい」と考える教員、「子どもたちのために身を粉にして働くのは当然」と考える教員はいまでも一定数おり、職員室全体の意識を変えるのは、一筋縄ではいきません。
教員の〝現場レベル〟での働き方改革は、どうすれば前に進むのでしょうか。
一つ目は、教員たちが、「子どもたちのため」という〝魔法の言葉〟をいったんわきにおき、これまでの働き方を振り返ることだと思います。
“自分は教師である”というプライドがあるのか、「今の状況が苦しい」とSOSが出せない教員が多いように感じます。自身で抱える悩みや苦しみを、〝献身的教師像〟を盾にごまかしていては、問題の根本を解決していくことはできません。
長時間労働による過労が原因で体調をくずし、毎年何人かの教員が職員室を去っていく。
このような状況を改善していくために、教員自身も改めて、「学校ってなんだろう」と考えてほしいのです。
長時間労働を誇りにするのは時代遅れであること、〝一労働者としての教師〟として仕事をしていくことを意識することで、職員室の空気が少しずつ変わっていくのではないでしょうか。
保護者や地域住民が協力し、安定した土台づくりへ
二つ目は、より多くの保護者が、先生たちの長時間労働を正しく理解し、応援することだと思います。
最近の先生方は、保護者からのまなざしをかなり気にしているように感じます。少数のいわゆる〝モンスターペアレント〟からのクレームというより、もっと漠然とした保護者全体からの評価におびえているように見えるのです。
しかし、大部分の保護者は、先生の働き方に関心をもち、「先生を応援したい」という気持ちを抱いているものです。
今、学校はこれまでのさまざまな教育サービスを削減しようとしています。保護者のみなさんには、教員の長時間労働問題の観点から、教育サービスの削減にはある特定の理解をいただけると、学校としても安心して働き方改革に取り組めるのではないかと、私は思います。
教育という仕事は、子どもの未来を創り出す尊い仕事です。だからこそ、先生たちには健全な労働者として過ごしてもらいたいですし、そういう姿を子どもたちにも見せてもらいたいのです。
そのためにも、給特法の改廃をはじめとするシステムの見直しに加え、教員、保護者、地域住民それぞれの意識改革が必要とされています。
学校に多くの人が理解を示し、安定した〝土台〟ができてはじめて、学校は、「子どもたちが安全・安心に過ごせる場」「子どもたち一人ひとりが自分の考えをのばし、人生を展望する場」となりえるのではないでしょうか。
<取材・執筆/長島ともこ>
教育社会学者・名古屋大学大学院教育発達科学研究科准教授/博士。学校における教員や子どものリスクについて調査研究するほか、全国各地での講演やウェブサイト「学校リスク研究所」などを通じて発信している。『みらいの教育』(武久出版)、『ブラック部活動』(東洋館出版社)、『学校ハラスメント』(朝日新聞出版)など著書も多数。〈学校リスク研究所〉ホームページ▶︎http://www.dadala.net/